After Dialogue “London, Beyond Hate”
23 9月 2019

横山:
今回の写真展に関しても、グライムにせよパレードの写真を並べて展示するにあたって、自分の中でやっぱり後ろめたさみたいなものもある。やっぱり色々関係のないものを混ぜてしまってるから。ロンドンという街をテーマにしているるものの、ジャンルなんかもバラバラで、自分でタイトルも付けてしまっている。客観的であるということを逃れようとしてるわけではないけど、そういうのを嫌がる人はすごく嫌がるでしょう。「グライムを政治的なものと一緒にするな」って声もあると思う。でも、自分はグライムを政治的なものと切り離して表現することは、自分にはいろんな意味でできない。まず、グライムが特別な政治、経済、社会、地理的な背景から出てきて、その中でどう表現で生活を変えて、自分の周りの人間を変えて、自分自身を変えていくかっていう音楽であるから。自分はそう思ってるから。そうじゃないって思う人は、政治的なものを脱色するならできるところまでやったらいいし、それはそれで新しい見方ができて面白いと思う。それは別にさ、色ついて嫌がる人もいるけど、自分は写真のキャプションなんかで、そのあたりを全部言葉で「こうこうこういう意味で政治的なんですよ」って説明するわけでもないけど。

Rhetorica 松本:
今回の展示で一番面白かったのは、本来全然違う存在であるアンチレイシズムやパレードとグライムが一緒に展示されていたことですよね。しかも別々のものなのに、そうした背景を抜きにして単に写真として見た時にすごく共通したスタンスを感じて、そこが面白いなと。

横山:
全然違うものだから。パレードのやつは、まあ「レインボーパレードのウィーク中に写真展やらへん?」っていうリクエストからやってるいうのもあるし、大阪や京都で写真展をした流れでやらせてもらえた。けど主催のTokyo No Hateの人たちとどんな展示でしましょうって話をしている時に、「よこちんの写真展やるとなると、グライム無しでパレードの写真だけってなると面白くないからそのままで行こう、写真としてかっこいいものだけを飾ろう」って、なって。「じゃあいろいろロンドンで撮った自分が一番かっこいいと思うやつを出したいっす」っていう感じで。

それで、テーマとしては、「凛と立ってる人たち」、うるさいやつら、スピークアップするやつら。自分が撮影した写真は下手だし、アートとして最高な写真なんて一つもない。基本的に自分が撮影したものが、どうしてもポリティカルになってしまうのは仕方ない。自分はそういうの好きやし、原発のデモとかやってたし、ヘイトスピーチヘのカウンターもやってるし。けど写真のフォームでやるなら、かっこよくやらないと意味はないと思ってる。社会運動の報道パネル展という感じでやるのも客観的に悲劇をちょっと抑えたトーンで見せて、なんとなくなグローバルな関心を乞うようなものではなく、見てしまった人が「自分はどうなんだ」って思えるような写真。今も表参道でロバート・キャパとかマグナムフォトの写真展やってるけど、写真としてかっこいい。どうせやるなら、そうじゃないとダメだし、それだけの話で。誰が見ても、どういう政治思想を持っていても、あれをかっこ悪いとは思わないはずでと祈ってる。後からぼくの立場や思想を知って「左翼っぽくて嫌だな、ダサい」って見た人が思ってしまうことがあるかもしれないけど、そう思った瞬間に、そのぼくの政治的立場みたいなものが嫌いな人は、最初ぼくの写真を見て「かっこいい」と最初に思った自分の感覚を裏切って言い直してしまってることになる。それは一番の罪深さだと思うし、そこまで写真で見せられて思わせることができたら写真というアートフォームでやる意味だと思う。

自分の中では、今のところは、日本でもイギリスでも色んな所でヘイトスピーチしてるやつらは、そういう意味でかっこわるいからまだ平気かなと思う。これがかっこいい感じで出てきちゃったらまずいなという気持ちはある。自分だったら極右のおっさんとかも、もしかしたらかっこいい風に撮れるかもしれないけど、でもそれはやらない。それをやらないっていうところがすごくポリティカルだと自分でも思う。撮らない、っていう選択をするだけ。暴力的だと思うけど、それが政治だと思うし。文章で多少は説明するし、わりと熱く書くにせよ、くどくど「この写真を好きにならないといけない」理屈を書きたくない。

松本:
今日の展示は、個々の題材に主張の内容は色々あるにせよ、主張している姿はいいじゃん、っていうのがいいですよね。
主張している内容自体はバラバラで、矛盾しているものさえあるかもしれない。でも、一つの題材だけで展示をしても、そのネタが好きな人が来て、ああ自分の好きなものだった、って思って帰るだけになってしまう。今日の展示は、グライムが好きな人にとっても、パレードに関心がある人にとっても互いに新しい発見があるようなものになっていたと思う。そこがすごくいいなと。題材や主張ベースというより美学ベースなところが。横山さんの活動や、今日の展示のなかでのグライムの位置づけは?

横山:
自分としては、写真展するならはパレードの写真だけでも、グライムの写真だけでもいいと思っていた。色んな状況があってこういう形になったわけだけど、もし仮にあそこにグライムの展示を載せられないんだとしたら自分は自信持ってできなかったと思う。なぜなら、Lesbians and Gays Support The Miners(LGSM)がやっていた活動っていうのは、同じアイデンティティや政治的主張が同じ人達のサークルを越えて、他のアイデンティティ同士がクラッシュするところまで越境してこその話だと思うから。矛盾を抱えたもの同士じゃないと、連帯したときに絶対的な連帯の力を持つことが出来ないし、逆に魅力的とも思わないから。フーコーがどこかで言っていた話でとても好きなんです。

ぼくは、本当言うと、あのグライムのキャプションにつけたタイトルをイベントのタイトルにしたかった。「Stand Up Tall, Never Shut Up」っていうのが全部を表しているって感じなんです。凛として立って、黙らない、っていう。「Stand Up Tall」っていうのは有名なグライムのラッパー、ディジー・ラスカルの曲のタイトル。「Never Shut Up」っていうのは、最近日本にも来たストームジーの「Shut Up」から。タイトル何にするかってなったときに、やっぱりアティテュードの問題で、自分はそういうやつらが好きだし、自分自身そういう風になりたいし、っていうのが一番の根本的なところ。展示の他のパートでは写真を始めた音楽の話は無いし、自分はやっぱり音楽が好きだし。グライムのアーティストたちのスタンスや、生活リズム、生活スタイルっていうのが重要なテーマなんだけど、グライムのそういう姿勢が今回展示した他のLGBTとかアンティファの人たちの写真にも見て取れるというか。どっちかというと、グライムのやつらの精神性の方が自分の中では大事で……まだここは自分のなかでもうまく言葉にできてないんやけど、やっぱりああいう展示をすると色々言われたり、「なにも言われなかったり」する。政治的なものと音楽を一緒にしてるとか。LGSMとグライムなんて、水と油と言わないまでも結構ジェンダーやポリティカル・コレクトネスからすると危ない関係かもしれない。でも自分の中では「いや知らん、俺らは言う!」ってところで共通しているから並べて展示できたりする。

「いろんな事象」と並べてグライムの写真を展示してもいい、展示したいって、グライム・シーンに入っていって、アーティストを話しているうちに思うようになった。その事実は、グライムがどんなふうに自分の人生に大きく影響を与えているかということを端的に表していると思ってる。グライムが生まれてから、近年まで、ロンドンの団地で、言わば「ギャングスタ」のように周りのグライムクルーや自分がホームとする海賊ラジオ同士の戦いの中でスタイルを磨いてきた。そして海賊ラジオから生まれたという、その地域的なしばりであったり、海賊ラジオっていう文化経済的な特殊性というものから、一部の若者の間だけで聴かれる音楽にとどまって、なかなか爆発的に広まったりすることができず、変にポップスター気取るか、ハードコアなアンダーグラウンドのままでやるかっていう、ジレンマを抱えながら進行していた。

けど、最近になってグライムはインターネットラジオをベースにして、ポピュラリティを得たり、今までの悪い方向性から脱却しようとしている。グライムのアーティストも、ハードコアなスタイルを保持しながら、ポップのグランドに殴りこみを掛けることができているような気がする。そしてグライム・アーティストたちの中の「クールさ」が「ギャングスタ」のモードから「コンシャス」のモードへ移行したり、部分的にコンシャスを取り入れようとしている。コンシャスって日本語にすると「意識が高い」ということになってしまうのかもしれないけど、政治的なことであったり、より自分たちがよりよくなる方向に動いていくために、声を大きくして何かをレペゼンして、クリエイティヴィティを発揮するようにさらに努力している。自分たちの周りだけをレペゼンして、何も顧みないっていうギャングスタ的なハードコアさっていうのは、少し後退しているように思える。そのカルチャーは循環するものなのかもしれないけど。昔からの価値観を大事にしながら、どうやって持続可能に、音楽産業内でやっていくか、もしくは音楽産業自体を自分たちで作り出すか、そして自分たちの周りや自分の意識を変えていくかというチャレンジが、今のグライムにはあるように自分は感じている。

だからバラバラに見える展示の被写体のテーマは一貫している。アンティファ的な活動も、さまざまなバックグラウンドの人が、インターネットなどを駆使して協働して、カウンターしている。ブリクストンでのデモの写真、Reclaim Brixtonも同じように「新しくはない」都市のジェントリフィケーションという問題に対して、インターネットとリアルを行き交いながら、人々の耳目を集めることに成功している。アンティファなサッカーサポーターグループの連中も昔からいるんだけど、Clapton Ultrasは数年前にできて、スタイルとしてはすごく古臭いんだけど、現代の酒も発煙筒も持てない、おとなしくなってしまった拝金的でプレミアリーグ的な思想に対するアンチテーゼとして、サッカーのファンダムの中で、政治的なスタンスをはっきりさせながら、自律的な空間を創りだそうとしている。今までのやり方ではうまくいかないから、ポジティブに世界を変えていくために、自分たちが変わっていく、そしてそのためにクリエイティヴィティを発揮しよう、そしてその姿は美しくあろう、というのが今回のテーマだし、自分の人生の目標みたいなものなんだと思う。

Blend is Beautiful. Tokyo No Hateが開催してくれたアフターパーティのタイトルに、その思想は現れている。確かにそう。けど言葉で言うのは簡単だけど、実際は本当にむずかしい。「そんなことしなくてもいいんじゃないの」って声が常に自分の頭のなかに聞こえてくる。「被写体の人たちはどう思うんだろうか、嫌がらないかな」って常に考えてしまう。けど、こういう風にロンドンで起こっていること、様々なテーマをパワープレイで一つのギャラリーでいっぺんに展示すること自体が、自分の生き様でしかないし、それをやり切って、どれもカッコいいって思ってもらうこと自体が、自分のチャレンジで、芸術的で政治的なステートメント。人を動かすっていうのは芸術的でないと絶対に動かないし。それは最高に政治的なこと。反原発でやって来たTwitNoNukesも最高にリアリスティックにファンタジーに陥らないアートと思ってる。SEALDsも彼らが持つ思想とエネルギーを芸術的にエモーショナルに表現したからこそだと思うし。だから多くの人を動かした。理屈も大事だけど、理屈じゃない。理屈を言ったらカッコいい時にだけ理屈を言ったらいい。

普通は中途半端に「いろいろな要素を入れてみました。だっていろいろあると多文化共生でいい感じだし」って、なんにも真剣に考えていないダサいパーティや写真展には絶対に人は来ないし、ぼくは行きたくない。だから今回はその「ダサさの壁」を超えて先に行こうと思った。展示会とパーティに延べ人数でおよそ1000人近い人が足を運んでくれた。そしてレインボーパレードに参加した人が写真展のアフターパーティーで最高のグライムを聞いて、グライムを目当てに来た人がドラァグクィーンのショーで完全にやられるっていう光景を見て。そして、ある人が「やばすぎてしょんべんもらしそう」ってぼくに言ってきた。ぼくも本当にもらしそうだと心から言える。

協力: Rhetorica

Thanks to…
Tokyo No Hate、C.R.A.C、TRP2016、JP Grime、Wasabeat、こだまひびきさけび、FACT、Red Bull Music Academy
ele-king、凡どどラジオ、dista、Good Weather、Non Stop Kyoto、カゼノイチ、Erect magazine